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ほとんどの「のり平アニメ」の制作に立ち会った桃屋の小出孝之(現相談役)は、数々のダジャレ制作にも関わっているとか。今回は、「のり平アニメ」初期の頃の話です。
工場内で働く、入社当時の小出孝之。
私が桃屋に入社したのは、1950(昭和25)年。当社の『江戸むらさき』が誕生した年です。戦争中、工場は全焼し、
戦後も配給統制が続き苦労しました。『江戸むらさき』は、記念すべき戦後初の新製品でした。
そのころは小さな新聞広告を出すのがやっと。しかし、狭いスペースでもなんとか効果を出そうと、有名人を使ったシリーズ広告を掲載しました。その中で面白く、目立ったのは、三木のり平さんの描いた広告でした。
当時、公募した『江戸むらさき』のキャッチフレーズの中に、「朝食になにはなくとも江戸むらさき」というものがありました。のり平さんは、日大芸術学部出身。絵の才能もあり、助六スタイルの自画像を描いて、そこに「なにはなくとも江戸むらさき」と入れたのです。「朝食に」をはずしたことで、ぐっと歌舞伎のセリフらしくなりました。彼にはそういうセンスがありましたね。
桃屋がラジオCMをはじめたのが、1954(昭和29)年です。月曜から金曜日までの帯番組ですから、飽きないようにしなくてはいけない。これは、苦労しましたが、CMの勉強になりましたね。
のり平アニメのCMを開始したのは、1958(昭和33)年。三木のり平さんに吹き込みをお願いすることになったのですが、まさかそれが40年以上も続くとは思ってもみませんでした。
のり平アニメの制作スタイルは、昔もいまも変わりません。まず、制作スタッフが原案を考え、のり平さんと私がチェックした上で、絵コンテとセリフをつくり、のり平さんの吹き込み。アニメはのり平さんの声に合わせて制作します。アフレコではないのですよ。
のり平さんは、セリフの調子を変えて何度も読みながら、時にはアドリブを交え完成させていきます。最終のOKは、スタジオの調整室にいる私が出します。
のり平さんは浜町生まれ、私は八丁堀。どちらも下町生まれの江戸っ子同士。年は私が2つ下ですが、子どもの頃に見た芝居、映画、寄席などはほとんどいっしょでしたから、シャレの感覚や言葉の使い方など、共通点がありました。困ったことに、気に入らなければテコでも動かない江戸っ子かたぎも共通点。私がよいと思っても、のり平さんが気に入らず、彼がベストだと言っても、私がダメを出す。30秒のCMに7時間かけたこともあります。ダジャレひとつにも、真剣に取り組んでいました。
※本インタビューは、2004年3月16日に収録したものです。